民族主義

ソビエト政権の崩壊後の民族主義の台頭。日本とロシアで同時に起きているのは偶然ではないだろう。まるで悪い夢を見ているようだ。イデオロギーの時代が終り、利己的な民族主義にすがるようになったのだ。ロシア人は社会主義を諦めた。外からはそれはいいことのように見えただろう。全体主義の終焉は確かによろこばしい。しかし同時に剥き出しのロシア中心主義が復活し、他民族の軽視傾向があるのは問題だ。「全ての民族が社会主義のもとに」という平等主義は消え、実質的にロシア民族文化だけが勝者となった。日本でも同じようなことが起こっている。戦後の平和主義は誤りだった、あるいはもっと素直に「戦後の反日教育は誤りだった」というのは、端的に言えば日本民族主義の復活の声である。日本人は今や平和主義、民主と人権、それらを基盤に民族主義を超えた社会を建設しようとした夢を諦めつつある。

このような動きはまさに反動である。社会主義も民族主義も、戦後体制もすべて近代の産物であり、本質的な違いなどない。それぞれに善き部分と悪しき部分があるはずだ。将来像を見失っているのに、変革だけを求めるのは愚かである。ロシアでも日本でも、現代社会には様々な問題があろう。しかし、それらは民族主義が足りないせいではない。民族主義は魔法の杖ではない。

失業

日本の「フリーター」は現実を直視すれば「失業者」である。大抵は正社員になりたくてもなれないのだ。しかし巷で言われるように、一種の「就職拒否」的な者もいるかもしれない。そういった者たちにしても、なぜ悪くいわれるのか私には全く理解できない。彼らはもっと低賃金で長時間労働する長期契約を結べばよい、ともいわれる。しかし、彼らは将来もっと条件のよい職場で働くことを夢見るがゆえに、現時点での長期契約を拒否しているのであろう。一種のストライキのようなものだ。実際には低賃金労働をしているのだから、彼らが拒否しているのは長時間労働と長期間契約である。これはむしろまともな考えではないか。金持ちなら悠悠自適な生活を許され、貧乏人は死ぬまで働け、というのは酷な話だ。低収入で満足だというのだからいいではないか。

バルチカ

サハリンでもビールといえば「バルチカ」だ。アルコール度によって0番から9番までの種類がある。大抵は3番か4番があるが、物資不足だとそうもいかない。9番しかない、なんてこともあった。9番はアルコール強化ビールである。のどごしだけで飲んでいると結構酔っ払ってしまう。今はいつでもいろいろな銘柄のビールが手に入るし、毎年のようにアルコール類は充実してきている。フランスやイタリアのぶどう酒も簡単に入手できる。ユジノサハリンスクならサッポロビールだって買える。でもビールの銘柄でおすすめなのは地元の「サハリン」だ。缶のデザインもいい。ちなみに地元のサハリン人は「金の樽」が一番うまい、という。こっちはあまり売っていないが。

アニメ

小さな集落で泊めてもらったとき、その家の子供がビデオに夢中だった。「チェラヴェーク・パウーク」というアメリカ製のアニメ。そう、「スパイダーマン」である。テレビがきれいに受像出来ないせいもあるかもしれないが、ビデオが安く出回っているし、仲間内で貸し借りも盛んだ。みなテレビやビデオで映画を見るのが大好きだ。映画はほとんどがアメリカ映画である。やがてロシアのアニメ放送も結局はディズニーアニメやハリウッドアニメに席巻されるのだろう。日本アニメもちらほらと入ってきているらしい。2003年には「サクラ大戦」の映画のビデオがロシア語字幕つきで売られていた。今のところ、サハリンで出会うロシアの青少年は「おたく」的傾向とは無縁に見える。どちらかといえば「大人」の文化である。しかし奇妙なナイーブさがあるようにも思える。ひょっとすると数年後には「おたく」だらけになっているかもしれない。

そろばん

サハリンに限らずロシア全域でなのだろうが、商店ではまだまだあの巨大なそろばんを見かける。玉が10個で扱いやすい、ビデオデッキほどの大きさのやつだ。商店でも毎年設備投資が行われ、電気式レジスターがどんどん導入されているので、出番は少なくなっている。しかしレジの横にちゃんと置いてあって、何かの折には(停電とか)いつでも使えるのだ。5年前にはどこにもレジなんぞなかったから、買い物のたびにあのそろばんの玉をすべらせる(「弾く」とはとてもいえない)音を聞いた。いらなくなったら是非一台買って帰りたいと思っているが、今はまだ結構大事にされていて売ってもらえそうもない。

問屋

サハリンでは小さな町にも商店がたくさんある。しかも面白いのは、同じような品揃えの店が多いことだ。食料品店、金物屋など一応「専門店」的な傾向もあるのだが、大抵はどの店も雑貨をひと通り揃えている。「自由競争」なり「資本主義」なり、いうことも出来よう。しかし、同じような店がたくさん並んでいるのはやはり奇妙なものだ。まるで秋葉原の電気街だ。例えばネジ一個探すのに、何軒もまわって規格の合った品物を探さなくてはならない。それぞれ置いてある品物が違い、「何でも揃っている店」というものがない。しかも「注文」ということが出来ない。いつか入荷するかもしれないし、しないかもしれない。

つまり問屋システムが整っていないらしい。各商店は自分の才覚で仕入れるだけで、しっかりした商品流通ルートがあるわけではなさそうだ。例えばアパートの水周りの修理をするとしよう。いくらサハリン人でも都会の人間は自分では出来ない。水道屋に頼むことになる。水道屋は町の商店を何軒もまわって部品を探す。部品はあったりなかったりする。ときにはパイプ一本見つからないために、何週間も待つことになる。

だが、これも考えようなのだろう。日本のような流通システムを構築できていなくとも、システムは単純だから混乱に強いかもしれない。わずか数十万人の人口で急激な変化を経験してきた社会が、たんに「遅れている」とはいえないはずだ。

サハリンは犬天国だ。それもめちゃくちゃな雑種ばかり。大型犬も小型犬もいっしょくただから、笑っちゃうような雑種が生まれる。おそらく古来の「ニヴフ犬」はもういなくなってしまったのだろう。しかし、ニヴフ人は相変わらずの犬好きである。一家に一頭は飼っている。もちろん番犬としてちゃんと働いてもいる。一軒家だとなおさら犬が頑張っているので、来客は大変だ。しかもふつうは呼び鈴が塀の門扉についていない。客は外から大声で呼びかけるしかない。

ニヴフ人も極東のほかの諸民族と同じく、昔は犬をよく食べた。犬をペットとして考えるとなかなか馴染めないかもしれないが、家畜と考えれば当然のことだ。肉を食べるだけでなく、血も皮も利用できる。シャマンの儀式の際にも使われたし、神への犠牲としても重要だった。ニヴフ伝統文化における犬の利用法はそれだけで大きなテーマである。しかし、現在ではニヴフ人は犬を食べない。なぜそうなってしまったのかはよくわからない。ソビエト体制下でシャマニズムが弾圧されたことと関係があるかもしれないが。「今は若いロシア人が食べてるよ」と笑われた。「あいつらは何でも食べちまう」のだそうだ。

(2004年8月27日)

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