人種差別

サハリンの子供たちは、幼いときすでに、身の回りに自分とは異なる顔つきの人間がいることに気づく。場合によっては話す言葉も異なるし、好む料理も異なる。幼い頃からの異文化体験は否応なしの共存を前提としたものだ。異文化を拒絶しようが受容しようが、隣人であることに変わりはない。それを排斥しようとすれば、隣人同士の対立という状態に耐えねばならない。

ロシア国民は愛国教育を受けて育ったし、実際国内外でロシア軍の関わる戦火が絶えない。だが、サハリンの人々には日本人よりも異文化を肌で知っている感じがある。民族間の対立は厳しく、家族内であっても人種差別的発言はやまない。親が「この子なんかニヴフ人じゃないよ、ロチ(ロシア人)だよ。見てごらんこの顔!」と言うとき、「白人崇拝」の色は全くない。「ロチ」というのはニヴフ語でロシア人を指すが、そのニュアンスは微妙である。ニヴフ語会話中で用いられるときは普通の単語だが、ロシア語会話中では軽蔑的に用いられる。肉親であっても、ロチと呼ぶときには排他的な空気が漂う。それでも、ある年齢以上の日本人が韓国・朝鮮人や中国人に対して見せる、あの冷たい拒絶とは異なるように思える。ニヴフ人がロシア人に対して見せる憎悪は、アイヌ人から和人に対するそれと同じく、むしろ怒りともいうべきものだ。

民族名称

ニヴフ人はかつてギリヤーク人と呼ばれていた。「ギリヤーク」というのはエヴェンキ語かなにからしい。ロシア人はシベリアを越えて東進してきたとき、エヴェンキ人やエヴェン人に頼っていた。彼らからアムール川の下流域に「ギリヤーク」という連中が住んでいる、と教わったのでずっとそう呼び続けていた。ではニヴフ人自身は自分たちをどう呼んでいたかというと、よく分からない。民族自称を持たない民族は珍しくない。日本人にも「民族自称」はない。たいていの場合、民族全体を指す呼称は他称である。それは他称が、それ以外の明確な指示対象を持たないからである。逆に自称はその民族の内外で機能している別の集団(例えば氏族や国家)を指示対象とすることが多い。

ニヴフ語でウイルタ人はオルゴシュ(orgxorh)、アイヌ人はクギ(kughi)、日本人はシズム(sizm)あるいはシザム(sizam)、ロシア人はロチ(loc)あるいはロチャ(loca)と呼ぶ。これらのうち自称から来ているのはロシア人の呼称だけである。しかし、厳密に言うと「ロシア人」と「ロチ」は同じではない。狭義にはウクライナ人やベラルーシ人が含まれるし、広義にはヨーロッパ人を指すからだ(アメリカ人は微妙である。「アメリカ」という単語もあるにはある)。問題は狭義の「ロチ」である。ウクライナ人やベラルーシ人は自分たちは「ロシア人」ではない、と主張するだろう。だがそれは政治的な話である。言語も文化もよく似ているし、「スラヴ民族」と言えば拒否反応も少ないかもしれない。彼らも自分たちがロシア人と同じ範疇に入りうる、ということは知っているのだ。そしてニヴフ人は見分ける必要を認めなかったからこそ、同じ単語で呼んだのだ。

「ニヴフ」と「ギリヤーク」

現在、一般的には「ギリヤーク」は好ましくない単語である、とされている。その辺りの事情が分からない方は「ジャッカ・ドフニ」のサイトでも覗いてみるとよい。相手をどう呼ぶかはデリケートな問題なのだ。さて、では「ニヴフ」はどうだろう。「ニヴフ」はロシア語で現在公式に用いられる単語であり、「ギリヤーク」のいわば言い換えである。「ニヴフ(nivkh)」という語形はアムール方言形で「人間」を意味する。この単語のサハリン方言形は「ニヴン(nivng)」あるいは「ニグヴン(nighvng)」である。サハリンのニヴフ人にとっては「ニヴフ」という単語自体が新しいものである。「人間のことはニヴンと言うんだ。ニヴフじゃないよ。それはアムール方言だ」としばしば言われてしまう。

ニヴフ人たちは「ギリヤーク」という単語を割と平気で使う。どう呼ぼうが、会話中でことさらにニヴフ人を指示するときは「抑圧される側である」という文脈から逃れることは出来ない。「ギリヤークの文化は独特である」「ギリヤークは貧しい」「ギリヤークは金持ちである(逆説的に)」あるいは「ギリヤーク文化は自然と共存する文化である(つまり前近代的である!)」などなど。ロシア人に投げかけられる軽蔑的なニュアンスとともに、この言葉は忘れられないものになるらしい。語源がどうだとか、そういうレベルの問題ではない。「ニヴフ」という単語が再び同じく汚辱にまみれないことを願う。

あるとき訪問先で若いニヴフ人に「誰だお前?」と見咎められ、つい「イポーニェツだ」と応えたことがあった。名前を告げればよかったのだろうが、めんどくさかったのだ。彼は一瞬戸惑ったようだったがすぐに笑顔になり、「俺はギリヤークだ」と誇らしげに握手を求めてきた。彼はニヴフ語など知らない世代である。文化的にもロシア人と変わらない。その彼が一瞬、抑圧される側としてでなく民族的アイデンティティを主張しえた喜びを見せたように思えた。若い世代のそんな表情を見たのは初めてだった。その場面では、誇りを持たされた「ニヴフ」ではなく、貶められた「ギリヤーク」こそがふさわしかったのだ。

そもそも「人間」という単語は民族呼称としてはふさわしくない。日本人の民族名称を「人間民族」とか「ひと民族」とするようなものだ。民族呼称は固有名なのだから、普通名詞を採用するのは混乱のもとである。「人間」とか「ひと」という名前のひとがいたらおかしいではないか。それと同じである。

(2004年8月15日)

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