シクカ

ポロナイスクは日本領時代「敷香(しすか)」と呼ばれていた。それ以前はシクカ(sikka)という呼称があったらしい。第二次世界大戦後サハリン全島を行政下においたロシア人は、日本領だったサハリン南部の地名を全部変えてしまった。そのためアイヌ語地名の大部分が地図上から消滅してしまった。ところが逆に、アイヌ語名称が「復活」した例もごく少数ある。「敷香(しすか)」が「ポロナイ」スクに、「新問(にいとい)」岳が「ニートゥイ」岳になった、などである。ポロナイスクでは「旧名はシクカである」ということまで割と知られている。これらはロシア人が来た19世紀頃にアイヌ人から聞いた地名のまま、と考えるべきか。日本人が勝手に地名を変えてしまい、しかも漢字表記にしたものだから、ロシア人には馴染みもなかっただろう。いずれにしても、ロシア人にとって日本人は北方民族とは異なり、植民地主義的競争相手だった。日本領時代の地名を抹殺したのは当然だった。

ニヴフ人の苗字

ニヴフ人の名前も、アイヌ人の名前と同じく、かつては個人に特有のものだった。つまり苗字はなかったし、故人にあやかって同じ名前をつけるなどということもなかった。しかし20世紀になってソ連の行政システムが行き渡るようになると、苗字をつけさせられることになった。伝統的ニヴフ文化にはカルという氏族集団があったが、なぜかこれが苗字になった例はほとんどない。朝鮮半島において日本帝国が行った創氏改名は、伝統的な氏族集団を解体して日本的家(イエ)制度に再編することが目的だったともいうが、ソヴィエト政府にも同じような動機があったのだろうか。サハリン南部の日本領内では氏族名がそのまま苗字に移行しているが、のちに新しい苗字がいくつか作られた。少なくとも日本文化の「家(イエ)」にあわせた変化と言えるだろう。

カル制度は父系制である。日本やロシアと同じく、男女とも父と同じ氏族に属する。女性は結婚しても氏族を変更することはないが、子供たちは夫の氏族員になる。ところが20世紀に苗字システムが導入されたのち、母の苗字を継承した例が見られる。トゥミ川上流では「女性は女系をたどる」という証言もある。しかし下流では男性で母の苗字を継承している例もあるから、そうとは限らないようである。苗字という制度は、何らかの表面化しない潜在的な需要を満たしたのであろうが、それは一体なんだったのか。外部からの近代化に伴うニヴフ社会の変動と関係があるのだろう。

ロード

ニヴフ文化の伝統的な氏族集団はカル(q'al)と呼ばれた。現在では伝統的なカル制度はあちこちで崩壊している。自分のカル名を知らないニヴフ人も多い。だが、よくみると形を変えて残っているように思われる。例えば、いくら遠縁でも父系親族とは結婚できない。「同じ氏族だから結婚できない」という。氏族はすでに「カル」ではなくロシア語で「ロード」と呼ばれており、その固有名も失われているが、制度自体は残っているのである。かつてカル数より多くの苗字が作られたため、苗字が異なっていても同じカルに属するという現象が生じた。そのため、どの苗字同士が同じロードであるかが重要な知識となったらしい。現在では集住化以前の集落をカルと同一視する者が多く、そのためさらに混乱が生じている。

日本車

サハリンでは日本車がたくさん走っている。以前は中古車がほとんど無関税で輸入できたので大量に流入していたのである。ところが2003年、ロシアへの関税がいきなり一律50万円になったので、事実上輸入がストップしてしまった。ロシアのことだから今後どうなるか全くわからない。何年か経ったら関税が大幅に引き下げられるのではないか、とサハリンの人々は希望的に予想している。ロシアの自動車産業育成のためともいうが、現代の世界規模での業界再編劇を見るとそれは不可能としか思えない。サハリンに限っていえば、廃車のリサイクル体制も整わず、大気汚染も深刻なので、自動車が減るのはいいことなのかもしれない。ただ、現地の人々、とくに僻地の人々にとっては死活問題である。ペレストロイカによってソヴィエト体制が崩壊したとき、モーターボートもスノーモービルも供給がストップした。その後を埋めたのが日本車だった。夏は舗装も不十分な産業道路を、冬には凍った川も走る。ノグリキでは河口から続く湾内が凍ると、車で氷下漁に出かける。はてしなく一面に凍った海面をクラウンが走る光景はなかなかシュルレアリスティクである。

ロシア人

ここ3 4年でサハリンの人々の体型に変化がみられる。太っている人が以前より増えた。それもあまり裕福とはいえない層にも肥満がひろがっているようだ。よくない傾向である。カロリー過多なのではないだろうか。栄養が偏っているせいだろう。ロシア人だけではない、ニヴフ人も同じである。伝統的な食文化が崩壊してしまったため、ロシア人並に栄養不良に悩まされている。

ほんの数年前までは太っている人はまれだった。しかも裕福な層、つまり特権階級やマフィア(同じだが)に多くてまるでマンガのようだった。今後は逆になるのだろうか。いずれにしても体型がその人となりを表すだろう。サハリンは何だかんだ言ってもペテルブルグから遠く離れている。特権階級やマフィアは俗人であり、教養人はむしろ貧しい。こういった隔絶状態はそう簡単には変わらない。日本ではつい最近、インターネット上でさる会社の社長が「スノッブ(俗物)だ」と罵られ、大喧嘩になったという。やりとりをちらと見た限りでは罵られたほうは「スノッブ」の意味すら理解していないようだ。そもそもそんな罵倒をするほうがおかしいのだ。俗物に決まっているではないか。

教養人

サハリン人は一般的に文化中心から外れた田舎者を自認している。彼らには教養人としての自覚はない。東京に対する北海道人、ニューヨークに対する日本人と同じである。ところが、ニヴフ人には伝統的な教養人がいる。彼らは洗練され、共同体に対する責任感を持った文化人である。あえていえば、かつてニヴフ教養人は近代について無知であったかもしれない。しかしソヴィエト政権下でニヴフ人は近代世界と近代科学に関する知識を得た。今の我々が出会う中高年ニヴフ人の多くは、知性的で洗練されたソヴィエト文化人である。彼らはニヴフ文化と近代ロシア文化の両方に通じている。だが、彼らはニヴフ文化の一瞬の輝きだったのかもしれない。残念なことに、彼らの次の世代の多くは単なる「田舎のロシア人」に成り下がってしまった。ニヴフ文化の担い手としての自覚を失ってしまったのだ。

同じことが日本人についても言える。いや北海道人、アイヌ人についても同様である。世界の中心としての責任感がなければ、無責任な俗人を自認するようになってしまうだろう。より大きな文化への帰属はより大きな知識と、ときに強力な力をもたらしてくれる。しかし引き換えに責任感を失いかねない。それがアイデンティティの喪失、という事態の本質である。

アザラシ

アザラシは可愛い顔をしている。殴り殺すなどなかなか出来ない。「タマちゃん」にみんなが夢中になったのも当然だ。だが、サハリンのニヴフ文化においてアザラシは重要な食料だった。「だった」と過去形にしたのは、現在では事実上、あまり重要でなくなっているからである。アザラシの肉も油も都市部の店では売っていない。ロシアの食文化レパートリーに存在しないためである。ニヴフ人は独自の食料品店を維持できるほどの経済力を持たない。だから、漁師から回ってくるのを楽しみにしている。

サハリンの小規模漁業は小さなアルミ船で行われる。日本の漁船に比べるとまるでレジャーボートのような頼りないものだ。そもそも川船なので、湾内とはいえ海での漁に用いるのは危険である。海難事故は多い。どれも日本製の船外機がつけられている。すでに生産は中止しているらしく、どれもかなり年季が入っている。使えるものは修理しながら使い続けるのだ。これに一人で乗り込み、一日十数本のサケを獲る。彼らは猟銃も携帯していて、網を設置するとアザラシや鳥を撃ちに行く。アザラシは好奇心が強く、いつもこちらを眺めているが、そのうち船に寄ってくる。そこを撃つのだ。手間を惜しまなければ、罠で獲ることも出来る。ポイントに落とし罠を浮かべておくのだ。定期的に見回って、罠にかかっていたらオールで殴り殺す。

アザラシは獲りたて(といっても魚ほど急がないが)を塩ゆでにするのが一番おいしい。冷凍肉を用いた料理もあるが、それらはまあ「肉」というだけである。トナカイやウシに比べて特においしいとも思えない。塩ゆででまだうっすらとピンク色をした肉は、柔らかくて臭みがまったくない。筋が通っている感じはイヌの肉に似ているが、もっとさっぱりしている。塩だけでほかの味つけは不要だ。町に住んでいてはこんなものは食べられない。ノグリキの人々が夏には浜小屋の確保にやっきになるのも当然である。

現在ではヒマワリ油が主流だが、かつてニヴフ人の用いる油と言えば、アザラシ油だった。健康にも良く、カナダの会社がサプリメントとして全世界に高額で販売している。ニヴフ人の口に入りにくくなっているのは残念なことだ。先住民の知恵を文化人類学者たちが持ち帰り、先進国がその経済力で独占する。これは新たな植民地主義といえるのではないだろうか。我々がその先棒を担いでいることを忘れてはならない。

(2004年8月15日)

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