村上春樹『1Q84』便乗特別企画


「気の毒なギリヤーク人は本当に気の毒か?」


チェーホフ『サハリン島』のニヴフ民族(ギリヤーク人)に関する記述について

2009年8月15日版(同年9月3日リンク修正、誤字脱字を修正)

2009年6月22日版に加筆・削除修正したものです。加筆修正は、村上春樹『1Q84』が引用元としている中央公論社版(原卓也訳)が新装版で再販され、それを入手できたために行ないました。削除部分は消し線で示してあります。加筆部分は主として中央公論社版(原卓也訳)の引用部分です。それ以外の加筆は青字で示してあります。赤字は村上春樹『1Q84』での引用部分と中央公論社版が異なる箇所です。2009年6月22日版では岩波文庫版(中村融訳)と比較したために、若干ちぐはぐになっていました。それを修正しため、赤字部分は6月22日版と8月15日版で一部異なります。

2009年6月22日版(旧版)はこちら

Googleやyahooから検索で来た方はまず写真でもどうぞ


『サハリン島』(中央公論社版・岩波文庫版)

 チェーホフの『サハリン島』は中村融訳による岩波文庫版が比較的簡単に手に入ります。上下二分冊です。村上春樹『1Q84』で引用されているのは原卓也訳による中央公論社版ですが、こちらは絶版で入手困難です。私の手元にもありません。ですので、ここでは村上春樹『1Q84』および、岩波文庫版を引用することにします。

 チェーホフの『サハリン島』は中村融訳による岩波文庫版、原卓也訳による中央公論社版がともに入手できます。『1Q84』に引用されているのは中央公論社版です。ここでは村上春樹『1Q84』での引用中央公論社版岩波文庫版の順に並べて示すことにします。赤字部分は相違箇所です。ただし、岩波文庫版では必ずしも示してありません。

 『サハリン島』のニヴフ民族に関する記述は有名で、非常に短いにもかかわらず、日本でも比較的よく知られています。ほぼ同時代(19世紀末)のシュレンクやシュテルンベルグらによる基本文献が邦訳されておらず、ほかにあまり読むものがないためです。実を言えば、時代は下りますが、1920年代の民族誌であるE・A・クレイノヴィチ『サハリン・アムール民族誌』(原題「ニヴフグ」)の邦訳が法政大学出版局から出版されています。これがおそらく現在日本語で読める、最も詳しいニヴフ民族に関する記述ということになるでしょう。ニヴフ民族(ギリヤーク人)は、サハリン島からアムール河口地域にかけて、現在5000人程度が暮らしています。最近になって人口が急減した、などということもなく、知られている限り昔から数千人しかいないので、さほど注目を集めるような民族ではありません。サハリン島には人口の半数が暮らしており、さらに二つの方言集団に分かれます。西海岸側ではアムール地方と同じ方言を話し、東海岸側ではサハリン方言(東サハリン方言)を話します。岩波文庫版『サハリン島』ではそれぞれ「大陸ギリヤーク人」「サハリン・ギリヤーク人」となっています。

 チェーホフの『サハリン島』は村上春樹『1Q84』の第一巻で9回引用されています。ただし9回目に引用された部分は7回目に引用された部分と同じですので、チェーホフ『サハリン島』から8箇所が引用されているということになります。うち、第一引用部分は、登場人物の一人「天吾」という男性の説明的台詞として語られます。第二引用部分から第七引用部分までは、「天吾」がもう一人の登場人物「ふかえり」という女性に朗読して聞かせる、という形で引用されています。これは劇中では連続した部分ということになっています。最後の第八引用部分は、「ふかえり」が眠ったらしいので「天吾」がどちらかというと自分のために、別の箇所の朗読を続けた、という形で引用されています。

 ここでは、村上春樹『1Q84』で引用された全箇所について、チェーホフ『サハリン島』の岩波文庫版と並べて示し、その記述内容が現在ではどう考えられるか、を検討してみたいと思います。

 ここでは、村上春樹『1Q84』で引用された全箇所について、チェーホフ『サハリン島』の中央公論社版・岩波文庫版と並べて示し、その記述内容が現在ではどう考えられるか、を検討してみたいと思います。チェーホフの『サハリン島』はかなりの長編ですが、ほとんどが流刑地としてのサハリン島の記述です。ニヴフ人に関する記述はわずかで、『1Q84』で引用された分量の倍程度しかありません。ニヴフ人目当てで『サハリン島』を購入された方は肩透かしをくらった気分かもしれません。流刑地としての話も十分興味深いので、購入する価値はあるとは思いますが……。

 『1Q84』の引用箇所は表記が細かく変更されており、さらに2箇所の削除部分が存在します。それらは赤字で示してあります。おまけとして『1Q84』では引用されていない記述についても少しふれました。それらも赤字で示してあります。

 なお、ここではあくまでチェーホフの記述を検討するだけにとどめています。『1Q84』における引用の意味については、「村上春樹『1Q84』における引用の仕方」にゆずりました。


第一引用部分(「天吾」の台詞)

「もともとは南の方に住んでいたんだけど、北海道からやってきたアイヌ人に押し出されるようなかっこうで、中央部に住むようになった。アイヌ人も和人に押されて、北海道から移ってきたわけだけどね。」(村上春樹『1Q84』p463)

「その昔、ギリヤーク人の故郷はサハリンだだったのだが、のちに、南部からアイヌ人に圧迫されて、そこから大陸の近い部分へ移ったのである。ところで、このアイヌ人もまた、日本人に圧迫されて日本から移ってきたものなのだ。」(中央公論社版 チェーホフ『サハリン島』p181)

「元来、ギリヤーク人の故郷は、嘗てはただサハリンだけであったのを、日本人に圧迫されて、日本から移動して来たアイヌのために更に南方から制圧を受け、そこから近くの大陸の一部へ移ったものであろうといわれている。」(岩波文庫版 チェーホフ『サハリン島・上巻』p242)

(1)大昔の居住範囲について

 ニヴフ文化がかつては今より広く分布していた、という推測は以前から主として考古学的見地から唱えられてきた説です。ですが、文献資料が少ないために決定的なことはいえません。当時のロシアでは日本の近世史に関する情報が少なかったので、このように考えられたのでしょう。現在の研究からみると、こういう考え方にはちょっと無理があります。

@10世紀〜14世紀と推測されるアイヌ人の北上は「和人に押されて」ではありません。むしろその時代の北方では和人よりアイヌ人の方が勢力が強かったでしょう。むしろ和人との交易で力を蓄えたアイヌ人が勢力を北方に拡大したと見るのが普通です。

Aニヴフ人の故地(もともとの居住地域)については不明です。北海道からサハリンにかけてのいわゆる「オホーツク文化」(5〜9世紀)の担い手がニヴフ人だという説は有力ですが、それも「おそらくサハリンから北海道へ南下した」と考えるのが普通でしょう。また、有史以前のニヴフ人居住地域がオホーツク沿岸一帯に広がっていた、といういささかファンタスティックな説もあるくらい、分からないことが多いのです。アムール川流域のニヴフ語(アムール方言)は新しい特徴を備えていますが、だからといって「昔はアムール地方にいなかった」わけではありません。むしろそちらが故地である可能性もあるのです。

B北海道における「オホーツク文化」の担い手は「アイヌ人に同化・吸収された」と考えられています。つまり彼らがニヴフ人だったとしても「押し出されて北上」という証拠はありません。「住民は移動せず、言語と文化が変容した」のでしょう。


第二引用部分(「天吾」による朗読)

 「ギリヤーク人はずんぐりした、たくましい体格で、中背というよりむしろ小柄な方である。もし背が高かったら、密林で窮屈な思いをすることだろう。骨太で、筋肉の密着している末端の骨や、背骨、結節など、すべてのしい発達を特徴としている。このことは、強くたくましい筋肉と、自然との絶えない緊張した闘争連想させる。身体は痩せぎすな筋肉質で、皮下脂肪がない。でっぷりとったギリヤーク人などには、お目にかかれないのだ。明らかに、すべての脂肪分が体温維持のために消費されている。低い気温と極端な湿気によって失われる分をうため、サハリンの人間はそれだけの体温を体内に作り出しておかくてはならないそう考えれば、なぜギリヤーク人が、あれほど多くの脂肪を食物に求めるかが、理解できるだろう。脂っこいアザラシの肉や、サケ、チョウザメとクジラの脂身、血のしたたる肉など、これらすべてを生のままや、干物、さらには多くの場合冷凍にして、ふんだんに食べるのだが、こういう粗雑な食事をするため、咬筋の密着した箇所が異常に発達し、歯はどれもひどく擦りっている。もっぱら肉食であるが、時たま、家で食事をしたり、酒盛りをしたりするときだけは、肉と魚に満ニンニクや苺を添える。ネヴェリスコイの証言しているところによると、ギリヤーク人は農業を大変な罪悪と見なしており、地面を掘りめたり、何か植えようものなら、その人間は必ず死ぬとている。しかしロシ人に教えられたパンは、ご馳走として喜んで食べ、今ではアレクサンドロフスクやルイコフスコエで、大きな円パンを小脇にえて歩いているギリヤーク人に会うこともめずらしくない。」(村上春樹『1Q84』p463〜464)

 「ギリヤーク人はずんぐりした、しい体格で、中背というよりむしろ小柄な方である。もし背が高かったら、密林で窮屈な思いをすることだろう。骨太で、筋肉の密着している末端の骨や、背骨、結節など、すべてのいちじるしい発達を特徴としている。このことは、強いしい筋肉と、自然との絶えない緊張した闘争連想させる。身体は痩せぎすな筋肉質で、皮下脂肪がない。でっぷりとふとったギリヤーク人などには、お目にかかれないのだ。明らかに、脂肪分がすべて体温に費消されているのである。低い気温と極端な湿気によって失われる分を補うため、サハリンの人間はそれだけの体温を体内に作りだしておかければならないそう考えれば、なぜギリヤーク人が、あれほど多くの脂肪を食物に求めるかが、理解できう。脂っこいアザラシの肉や、サケ、チョウザメとクジラの脂身、血のしたたる肉など、これらすべてを生のままや、干物、さらには多くの場合冷凍にして、ふんだんに食べるのだが、こういう粗雑な食事をするため、咬筋の密着した箇所が異常に発達し、歯はどれもひどく擦りっている。もっぱら肉食であるが、時たま、家で食事をしたり、酒盛りをしたりするだけは、肉と魚に満ニンニクや苺を添える。ネヴェリスコイの証言しているところによると、ギリヤーク人は農業を大変な罪悪と見なしており、地面を掘りはじめたり、何か植えたりしようものなら、その人間は必ず死ぬと考えている。しかしロシ人に教えられたパンは、御馳走として喜んで食べ、今ではアレクサンドロフスクやルイコフスコエで、大きな円パンを小脇にかかえて歩いているギリヤーク人に会うこともめずらしくない。」(中央公論社版 チェーホフ『サハリン島』p170〜171)

 「ギリヤーク人は、頑丈な、ずんぐりした体格をしている。丈は中ぐらい、もしくは小さい方だが、これで背が高かったら、密林の中などではさぞかし窮屈であろう。骨は太く、筋肉の密着した突起・隆骨・節々の見事な発達がきわ立って見られ、それが強靭な筋肉と、大自然相手の普段の緊張した闘争を偲ばしめる。からだは痩せがたで、筋張り、脂肪層というものがなく、でぶでぶに肥ったギリヤーク人などというものは見られない。明らかに残らず体温の方へ消費されてしまうので、低い気温と、桁はづれの空気の湿りけのために起こる発散を補うために、サハリン人はこの体温を体内に獲得しておかなければならないのである。ギリヤーク人が食物に非常に多量の脂肪分をとる所以も頷かれる。ギリヤーク人は、脂っこい膃肭獣・鮭・蝶鮫・鯨などの脂肉や、血のついたままの肉などを、いづれも多量に、生のまま、或は乾したり、冷凍にしたりして食べる。そしてこのような荒い食事をするために、ギリヤーク人の咀嚼筋肉の固定した箇所は異常に発達していて、歯という歯は悉くひどくすり減ってしまっている。食物としては獣肉だけであるが、稀れに家で食事をしたり、小宴を張ったりするような場合には、肉や魚に満州にんにくや苺などが添えられることもある。ネヴェリスコイの証言によれば、ギリヤーク人は農業を大きな罪悪と考えていて、地面を掘ったり、何かを植えたりした者は残らず死ぬというのである。しかし、ロシア人から教わったパンは、珍味として喜んで食べ、現在では、アレクサンドロフスクやルイコフスコエ村では、腋の下に丸パンを抱え込んだギリヤーク人の姿を見かけることも珍しくはない。」(岩波文庫版 チェーホフ『サハリン島・上巻』p229〜230)

(2)外見について

 ニヴフ人の背の高さについて、新しいデータはないようです。現在のニヴフ人から受ける印象は、「日本人と同じ」です。チェーホフの受けた印象は、ロシア人と比べてということなのでしょう。私は背の高いニヴフ人にも大勢会いました。170センチ以上もあるすらりとした女性もたくさんいます。

 体格云々の記述の当否については、判断のしようがありません。一般的に、どこの世界でも漁業従事者は体が資本ですし、鍛えられていますね。脂肪分に関していえば、たんに高カロリーだから摂取していたわけではないでしょう。実際にアザラシ油・魚油はむしろ健康によいらしい。ニヴフ伝統文化においては「食べ物はすべて同時に薬でもある」と考えられていますが、アザラシ油はなかでも健康によいとみなされています。

(3)食文化について

参考写真もどうぞ)

 アザラシ肉は今では生では食べません。塩ゆでにすることが多いようです。とても美味しいです。脂肪分は生や冷凍で食べます。干物も作りますが、現在ではあまり見かけません。サケはあまり生食しません。凍らせて「ルイベ」(凍魚)にして食べたりはします。また頭部の身(アゴの身)のみ生食します。サケはほとんどの場合は干物にします。もちろん獲れる時期には焼いたり煮たりして調理して食べます。チョウザメは「ルイベ」(凍魚)が最も美味とされます。焼いてステーキにして食べることもあります。個人的にはステーキが好きです(めちゃうまです)。スープにすることもあります。クジラ猟は早いうちに廃れたらしく、私は直接見聞したことはありません。間宮海峡側ではベルーガが獲れますが、それについてはクレイノヴィチが報告しています。ただ、全体的に見て、ニヴフ人は日本人に比較しても生魚が好きです。刺身(タルク)、凍魚(グンチョ)など山盛りにしてたくさん食べます。日本人より小さく切って食べます。伝統的にはニヴフ料理で塩味はあまり使いません。生魚もたいていはキフと呼ばれるソース(塩水に刻みネギ(あるいはギョウジャニンニク)を浸したもの)につけて食べますが、塩なしでも可です(日本人だと醤油必須ですよね)。日本人が持っていく「醤油+ワサビ」も人気ですが。

 「こういう粗雑な食事をするため云々」については、日本料理を考えれば、これが「粗雑」とはいえないことが分かります。私の知る限り、ニヴフ人が伝統料理のせいで「歯が擦り減っている」ということはないと思います。ロシア人とあまり変わらない。それどころか、70歳を過ぎても入れ歯や差し歯が一本もないニヴフ人もけっこういるようです。生魚・生肉・生野菜などは歯・歯茎のためにはむしろ良いマッサージ効果をもたらし、歯周病を予防します。

 なお、「もっぱら肉食」というのは、魚も含まれるのでしょう。チェーホフが会ったのは屋外で仕事(漁業)をしているニヴフ人でしょうが、その場合はもっぱら刺身を食べていたはずです。そのとき、日本の「白飯」にあたるもの(主食)は「干し魚」です。

 ニヴフ人の伝統的な考えでは「大地を傷つけること」はタブーとみなされます。これはかなり広くいきわたっていた考えらしく、今でもそれは聞かれます。ですからロシア人がサハリンで農業を普及させようとしたときに、ニヴフ人は抵抗したようです。そもそも漁業で忙しいので、農業なんてやっている暇がなかったのです。1930年代にチルウンヴド(「新生活」)という村が建設され、ロシア人主導でジャガイモ栽培が大々的に開始され、それ以来ジャガイモなどの小規模畑作が行われるようになりました(いわゆる「ダーチャ」)。ただし、規模の大きな農業経営に乗り出したニヴフ人はいなかったようです。


第三引用部分(「天吾」による朗読)

 「ギリヤーク人は決して顔を洗わないため人類学者ですら、彼らの本当の色が何色なのか断言しかねるほどだ。下着も洗わないし、毛皮の衣服や履物は、まるでたった今、死んだ犬から剥ぎ取ったばかりといった様子だ。下着も洗わないし、毛皮の衣服や履物は、まるでたった今、死んだ犬から剥ぎ取ったばかりといった様子だ。ギリヤーク人そのものも、げっとなるような重苦しい悪臭を放ち、彼らの住居が近くにあれば、干し魚や、腐った魚のアラなどの、不快な、ときには堪えられぬほどの匂いによってすぐにわかる。どの家のわきにも、二枚に開いた魚をところ狭しと並べた干し場があり、それを遠くから見ると、とくに太陽に照らされているときなどは、まるでサンゴの糸のようだ。こうした干し場の近くでクルゼンシュテルンは、三センチほどの厚みで地面を覆いつくしている、おびただしい数のウジを見かけた。」(村上春樹『1Q84』p465)

 「ギリヤーク人は決して顔を洗わないため人類学者ですら、彼らの本当の色が何色なのか断言しかねるほどだ。下着も洗わないし、毛皮の衣服や履物は、まるでたった今、死んだ犬から剥ぎとったばかりといった様子だ。ギリヤーク人そのものも、げっとなるような重苦しい悪臭を放ち、彼らの住居が近くにあれば、魚や、腐った魚のアラなどの、不快な、には堪えられぬほどの匂いによってすぐにわかる。どの家のわきにも、二枚に開いた魚をところ狭しと並べた干し場があり、それを遠くから見ると、に太陽に照らされているなどは、まるでサンゴの糸のようだ。こうした干し場のすぐ近くでクルゼンシュテルンは、三センチほどの厚みで地面を覆いつくしている、おびただしい数のウジを見かけた。」(中央公論社版 チェーホフ『サハリン島』p172〜173)

 「ギリヤーク人は決して顔を洗わない。だから人種学者でも彼らの本当の顔色を言いあてるのはむずかしい。下着も洗わず、その毛皮の着物や履物は、死んだ犬から今剥いだばかりといった形である。ギリヤーク人自らは重苦しい、むっとするような体臭を発散し、彼らの住家が近いということは、干魚や、腐りかけの魚の残りなどの耐え難い臭気によってそれと知れる。どの小屋の周囲にも大てい、干場があって、頭まで割いた魚が一面に乾してあり、それが遠目には、殊に太陽に照らされると、珊瑚の糸と見まごうばかりである。こういう干場のあたりで、クルゼンシュタインは、小さな蛆が、一寸ぐらいの厚みで、びっしり地上を被っているのを見かけている。」(岩波文庫版 チェーホフ『サハリン島・上巻』p231〜232)」

(3)顔色について

 ニヴフ人は「日焼け」します。そして彼らの伝統的な仕事は漁業ですから、男性はかなり日に焼けています。顔を洗おうが洗うまいが「本当の顔色」なんぞ分かるわけがありません。ちなみに、現在のニヴフ人は顔を洗います。間宮林蔵の記述によれば、女性は昔から洗髪もしていました。

 「下着を洗わない」というのは考えにくいことです。ニヴフ人が使用していた下着はおそらく「褌(ふんどし)」ですが、定期的に洗っていたはずです。毎日ではなかったかもしれませんが、「ロシア人に言われたくはないぞ」というのが当時のニヴフ人の反応だったに違いありません。いったい当時のロシア人のどれだけが毎日下着を洗っていたのか、と(それにニヴフ人とロシア人では体質もかなり違います)。

(4)皮なめし技術について

 衣服については、木綿服も普及していましたが、防水性・防寒性などからアザラシ皮、魚皮、犬皮などを素材とした衣服が多く用いられていました。「たった今剥ぎ取ったばかり」云々は、ニヴフの皮なめし技術があまり発達していなかったことを指しています。ニヴフの皮なめし技術は、アムール川下流で隣接していたウリチ、ナーナイといった民族と比べると簡単なものです。ナーナイやエヴェンクといった、皮なめし技術の発達した民族と先に接触していたロシア人の目にこう映った、ということでしょう。


第四引用部分(「天吾」による朗読)

 「冬になると、小舎はかまどから出るいがらっぽい煙がいっぱいに立ちこめ、そこへってきて、ギリヤーク人たちが、妻や子供にいたるまで、タバコをふかすのである。ギリヤーク人の病弱ぶりや死亡率については何ひとつ明らかにされていないが、こうした不健全な衛生環境が彼らの健康状態に悪影響を及ぼさずにおかぬことは、考える必要がある。もしかすると背が低いのも、顔がむくんでいるのも、動作に生気がなく、大儀そうなのも、この衛生環境が原因かもしれない。」(村上春樹『1Q84』p466)

 「冬になると、小舎はかまどから出るいがらっぽい煙がいっぱいに立ちこめ、そこへってきて、ギリヤーク人たちが、妻や子供たちにいたるまで、タバコをふかすのである。ギリヤーク人の病弱ぶりや死亡率については何一つ明らかにされていないが、こうした不健全な衛生環境が彼らの健康に悪影響を及ぼさずにおかぬことは、考える必要がある。もしかすると背が低いのも、顔がむくんでいるのも、動作に生気がなく、大儀そうなのも、この衛生環境が原因かも知れない。」(中央公論社版 チェーホフ『サハリン島』p173)

 「冬になると、小屋は竈から出る刺戟性の煙で濛々するのだが、なおその上に、ギリヤーク人というのは、女房、子供に至るまで一様に煙草をすうのである。ギリヤーク人の疾病や死亡については何も判っていないが、この不健全な衛生設備が健康上に悪影響なしに済まないということは考えなければならないし、或は背が低いのも、顔がぶよぶよとむくんでいるのもこの施設のためかも知れず、」(岩波文庫版 チェーホフ『サハリン島・上巻』p231〜232)

(5)ニヴフ人の住環境について

 チェホフは、「ニヴフ人の体臭」や、ニヴフ人集落の魚のにおい、干し魚を干す台の付近のウジ虫などについて書いていますが、余計なお世話です。どの文化のどの集落にも独特のにおいがありますし、魚干し台の近くにウジ虫がいても必ずしも不潔ではありません。干魚自体は毎日のように手入れをして作るので、ウジはついていません。また、台付近のウジ虫のおかげでむしろ周囲は清潔に保たれます。おそらくそこには犬の汚物でもあったのでしょう。なお、村上春樹『1Q84』ではチェーホフが「ニヴフ人集落の冬用住居の衛生環境が悪い」という視点で述べた文章のみ引用しています。公平を期すために、別の箇所を引用しておきます。

「しかし(冬用住居の:丹菊注)、内部は暖かく、乾燥しており、いずれにしても、労役囚たちが道路工事や野良仕事の時に寝泊りするあの樹皮張りの、じめじめした、寒い掘立小舎とは段違いだ。夏小舎の方にしても、園丁や炭焼き、漁夫、その他一般に、刑務所外や屋外で作業する労役囚・移住囚のすべてに、すすめてしかるべきものである。」(中央公論社版 チェーホフ『サハリン島』p172)

「(冬用住居の:丹菊注)内部は暖かく乾いていて、道路工事や野良仕事などの際に内地の徒刑囚たちが寝泊りする樹皮張りの、じめついた、寒いあの掘立小屋などとは雲泥の差である。夏小屋の方は、園丁、炭焼き、漁師、そのほか広く獄外や戸外で労働する徒刑囚や追放囚たちにも、確かにすすめていいものであろう。」(岩波文庫版 チェーホフ『サハリン島・上巻』p231)

 冬用住居にはカマドがあり、古くはオンドル設備によって煙を暖房に使ってから外部に出していました。1920年代頃にはオンドルは使われなくなっていたようです。冬住居の火としては、カマドと囲炉裏がありました。中央に設けられた囲炉裏の火は基本的には常に灯されていました。ただし、夜などは煙が立たぬよう砂をかけておきます。天井には煙抜きの窓が開いています。「煙がモウモウ」というのは誇張でしょう。とはいえ、冬用住居に暮らしている間は、必ずしも新鮮な食事ができるわけではありません。特にチルウンヴドなど内陸地方では、春先には食糧が不足気味だったようです。保存しておいたベリー類や氷下魚漁などを利用しても、ビタミンなどが不足するらしく、冬季には栄養不良になることがよくあったといわれています。とすれば健康問題の原因は設備ではなく、食糧事情のせいでしょう。

 チェーホフは、ニヴフ人が大人から子どもまでタバコを吸うと書いています。ニヴフ文化においてはタバコは非常にポピュラーです。ですが、なんだかんだいってタバコが貴重品だったことを忘れてはなりません。また、キセルで吸うので大量に吸うわけにもいきません。「子どもが吸う」ということについては注釈が必要です。ニヴフ社会では「その場に居合わせた者全員が少しずつ味わう」ことが重要視されます。酒は必ずしも子どもに飲ませませんが、タバコは少しだけ子どもにも味あわせるのが当然です。また、全員がタバコを吸うわけではありません。


第五引用部分(「天吾」による朗読)

 「ギリヤーク人の性格については、さまざまな本の著者が各人各様の解釈を下しているが、ただひとつの点、つまり彼らが好戦的でなく、論争や喧嘩を好まず、どの隣人とも平和に折り合っている民族だという点では、だれもが一致している。新しい人々がやってくると、彼らは常に、自分の未来に対する不安から、疑い深い目で見るものの、少しの抵抗もなしに、そのつど愛想く迎え入れる。かりに彼らが、サハリンをいかにも陰鬱な感じに描写し、そうすれば異民族が島から出てってくれるだろうと考えて、嘘をつくようなことがあるとしたら、それが最大限の抵抗なのだ。クルゼンシュテルンの一行とは、抱擁し合うほどの仲で、L・I・シレンクが発病したときなど、その知らせがたちまちギリヤーク人のあいだまり、心からの悲しみをよび起こしたものである。彼らが嘘をつくのは、商いをする時とか、あるいは疑わしい人物なり、彼らの考えで危険人物と思われる人間なりと話す時に限られているが、嘘をつく前にお互い配せを交わしあうところなど、まったく子供じみた仕だ。商売を離れた普通の社会では、一切の嘘や自慢話は、彼らにとって鼻持ちならないものなのである。」(村上春樹『1Q84』p466〜467)

 「ギリヤーク人の性格については、さまざまな本の著者が各人各様の解釈を下しているが、ただ一つの点、つまり彼らが好戦的でなく、論争や喧嘩を好まず、どの隣人とも平和に折り合っている民族だという点では、だれもが一致している。新しい人々がやってくると、彼らは常に、自分の未来に対する不安から、疑い深い目で見る、少しの抵抗もなしに、その都度愛想く迎え入れる。かりに彼らが、サハリンをいかにも陰鬱な感じに描写し、そうすれば異民族が島から出てってくれるだろうと考えて、嘘をつくようなことがあるとしたら、それが最大限の抵抗なのだ。クルゼンシュテルンの一行とは抱擁し合うほどの仲で、L・I・シレンクが発病した時など、その知らせがたちまちギリヤーク人のまり、心からの悲しみをよび起したものである。彼らが嘘をつくのは、商いをする時とか、あるいは疑わしい人物なり、彼らの考えで危険人物と思われる人間なりと話す時に限られているが、嘘をつく前にお互い配せを交わしあうところなど、まったく子供じみた仕だ。商売を離れた普通の社会では、一切の嘘や自慢話は、彼らにとって鼻持ちならないものなのである。」(中央公論社版 チェーホフ『サハリン島』p174)

 「ギリヤーク人の性格については、論者によってまちまちに説明されているが、帰するところは一つで、即ちこれは、好戦的な民族ではなく、論争や喧嘩を好まず、隣人とも平和にくらしている民族だということである。新来者に対しては、これまで彼らは自分の将来を危惧して、常に猜疑的な態度をとって来たが、決して逆らうようなことはせず、いつも親切に迎え入れている。もしも彼らがこんな場合に、サハリンというところを陰気な色調で描きつつ、それによって外国人をこの島に馴染ませまいと考え、いろいろと嘘を言うことがあるとしても、それは彼らにとっては精一杯のやり方なのである。クルゼンシュタインの一行とはたがいに抱擁し合うほどの間柄で、L・I・シュレンクが発病した際などは、その知らせは逸早くギリヤーク人の間に宣伝され、衷心からの悲しみを喚び起こしたぐらいであった。彼らは、商売をする場合とか、或は怪しいとか危険だとか考えた人と話をする際にだけ二枚舌を使うが、嘘をつく前に、おたがい同志に目配せするあたりは----まるで子供そっくりの仕草である。虚偽と高慢とは、商売の時は別として、普通の場合には、憎むべきものとされている。」(岩波文庫版 チェーホフ『サハリン島・上巻』p233〜234)

(6)ニヴフ人の「民族的性格」について

 「ロシア人と比較して」ということであれば、チェーホフの受けた印象としてはその通りだったのかもしれません。私の受ける印象でも、ニヴフ人は非常に礼儀正しく、むやみに喧嘩をふっかけたりはしません。喧嘩は悪徳とされます。ただし、勇敢さは重要視されます。周囲の民族と「平和に折り合っている」のは当然とはいえ、歴史上いくつもの争いを経験してきた民族だということも確かなようです。まず、13世紀に「クイ(骨嵬)」が「ギレミ(吉里迷」を攻撃した、というモンゴル帝国資料があります。ギレミはモンゴル帝国に応援を求め、モンゴル帝国軍は数度にわたってクイ軍と戦い撃破します。現ニヴフ語でアイヌ民族のことを「クギ」と呼ぶため、この「クイ」はアイヌと考えられることが多いのですが、細かく検討すると必ずしもそう簡単ではないことが分かります。まず、モンゴル資料に記載された「クイ軍」の指導者には「アイヌ語ともニヴフ語ともつかない人名」がいくつもあります。つぎに、現在のニヴフ民族には「クイ系統」と呼ばれる人々がいます。こう呼ばれる人々はアムール川下流のウリチ民族まで断続的に存在します。ニヴフの父系リニッジ(いわゆる「氏族」のこと)システムでは、異民族出身の男性が婿に入ってくると、その子孫は自動的に「異民族系」の新リニッジを形成します。彼らは言語・文化ともにニヴフ人そのものです。母体になったリニッジ、新リニッジはともにその異民族(の特定のリニッジ)と利害関係が同じであることが多く、自動的に一種の同盟関係になります。小規模な争いはリニッジ単位ですが、大戦争となれば、こういった同盟関係が連鎖的に巻き込まれるので、必然的に「多民族混成軍」が形成されます。つぎに、ニヴフ人自身の伝承によれば、過去においてリニッジ間の武力衝突は珍しくなかったようです。衝突相手は同じニヴフ人だったり、近隣の別民族だったりしました。なお、探検隊など、友好的関係を結んだ外部の人間に対して非常に親切にしたのは確かでしょう。

 「一切の嘘や自慢話は、彼らにとって鼻持ちならないものなのである」というのはおそらくニヴフ人の価値観によるものだと思われます。家や村の外では自慢話はしないように、嘘はつかないように、というのが伝統的な価値観です。


第六引用部分(「天吾」による朗読)

 「自分の引き受けた頼みをギリヤーク人はきちんとやってのける。これまで、ギリヤーク人が途中で郵便物を捨てたとか、他人の品物を使い込んだとかいう出来事は一度もない。彼らは勇敢で、呑み込みが早く、陽気で、親しみやすく、有力者や金持ちといっしょになっても、まったく気がねをしない。自分の上には一切の権力を認めないし、彼らのあいだには目上とか目下といった概念すらないかのようだ。よく言われもし、書かれてもいることだが、ギリヤーク人の間では、家長制度もまた尊ばれていない。父親は自分が息子より目上だとは思っていないし、息子の方も父親を一向にうやまわず、好き勝手な暮らしをしている。老母も洟たらしの小娘以上の権力を家庭内で持っているわけではない。ボシニャークが書いているところによると、息子が生みの母を蹴って家から叩きだし、しかもだれ一人あえて意見をしようとするものもいないという場面を、彼は一度ならず目にする機会があったようだ。一家族の中で、男性はみな同格である。もしギリヤーク人にウォトカをご馳走するとなったら、いちばん幼い男の子にもすすめなければいけない。
 
一方家族中の女性は、祖母であれ、母親であれ、あるいは乳呑み児であれ、いずれも同じように権利を持たぬ人間であり、投げてたり、売りばしたり、犬のように足蹴にしてもかまわぬ品物か家畜のようにたく扱われている。ギリヤーク人は、犬可愛ることはあっても、女性には絶対に甘い顔は見せない。結婚などは下らぬことで、早い話が酒盛りよりも重要ではないとされ、宗教的な、あるいは迷信的な行事は一切おこなわない。ギリヤーク人は槍や、小舟、はては犬などと娘を交換し、自分の小舎にかつぎこんで、熊の毛皮の上でいっしょに寝る----それでおしまいだ。一夫多妻も認められているが、どう見ても女性の方が男性より多いもかかわらず、広く普及するには到っていない。下等動物や品物に対するような女性蔑視は、ギリヤーク人たちの間では、奴隷制度さえ不都合と考えぬ段階にまで達している。彼らの間では明らかに、女性はタバコや綿布と同様、取引の対象となっているのである。」(村上春樹『1Q84』p467〜468)

 「自分の引き受けた頼みをギリヤーク人はきちんとやってのける。これまで、ギリヤーク人が途中で郵便物を棄てたとか、他人の品物を使いこんだとかいう出来事は一度もない。ギリヤーク人の船頭と交渉する機会にめぐまれたポリャコフは、彼らが、引き受けた任務を確実にはたす人間であり、官有貨物の配達などに際してはその長所がはっきりあらわれる、と書いている。彼らは勇敢で、呑みこみが早く、陽気で、親しみやすく、有力者や金持といっしょになっても、まったく気がねをしない。自分の上には一切の権力を認めないし、彼らのには目上》《目下概念すらないかのようだ。I・フィシャーの『サハリン史』には、有名なポヤルコフが、当時《いかなる他人の支配も受けていなかった》ギリヤーク人のところへ来た時のことが記されている。彼らの間には優越を意味する《ジャンチン》という言葉があるが、彼らは将軍のことでも、ナンキン木綿やタバコをたくさん持っている裕福な商人のことでも、同じようにこうよんでいる。ネヴェリスコイのところで、皇帝の肖像画を見た時など、これはきっと体力のすぐれた人間で、タバコやナンキン木綿をたくさんくれる人に違いない、と言ったものである。島の長官はサハリンでは、おそろしいほど絶大な権力を持っているのだが、ある日わたしが長官といっしょにアルムダンからアルコーヴォ村へ行った時、一人のギリヤーク人が出会いがしらに、臆する色もなく命令口調で『とまれ!』と、わたしたちに声をかけ、それからおもむろに、途中で彼の白犬に出会わなかったかと、たずねたことがあった。よく言われもし、書かれてもいることだが、ギリヤーク人の間では、家長制度もまた尊ばれていない。父親は自分が息子より目上だとは思っていないし、息子の方も父親を一向にうやまわず、好き勝手な暮しをしている。老母も洟たらしの小娘以上の権力を家庭内で持っているわけではない。ボシニャークが書いているところによると、息子が生みの母を蹴って家から叩きだし、しかもだれ一人あえて意見しようとする者もいないという場面を、彼は一度ならず目にする機会があったようだ。一家族の中で、男性はみな同格である。もしギリヤーク人にウォトカをご馳走するとなったら、いちばん幼い男の子にもすすめなければいけない。一方、家族中の女性は、祖母であれ、母親であれ、あるいは乳呑み児であれ、いずれも同じように権利を持たぬ人間であり、まるで、投げてたり、売りばしたり、犬のように足蹴にたりしてもかまわぬ品物か、あるいは家畜よろしく、されている。それでもギリヤーク人は、犬ならやはり可愛りもするが、女性には絶対に甘い顔は見せない。結婚などは下らぬことで、早い話が酒盛りよりも重要ではないとされ、宗教的な、あるいは迷信的な儀式は一切なわない。ギリヤーク人は槍や、小舟、はては犬などと娘を交換し、自分の小舎にかつぎこんで、熊の毛皮の上でいっしょに寝る---それでおしまいだ。一夫多妻も認められているが、明らかに女性の方が男性より多い、広く普及するには到っていない。下等動物や品物に対するような女性蔑視は、ギリヤーク人たちの間では、女性問題の領域に関する限り、もっと端的な野蛮な意味での奴隷制度さえ不都合と考えぬような段階にまで達している。シレンクの証言によれば、ギリヤーク人はしばしば、アイヌ女(ママ)を奴隷として連れ戻るそうだ。彼らの間では、女性は明らかに、タバコや綿布と同様、取引の対象となっているのである。」(中央公論社版 チェーホフ『サハリン島』p176〜178)

 「一旦引き受けた頼まれ仕事は、ギリヤーク人はきちんと実行する方で、これまでにも中途で郵便物を放棄したり、他人の物品を使い込んだなどということは一度もない。ギリヤークの船頭とも交渉を持ったボリャコーフは、彼らのことを、引き受けた義務の正確な履行者だから、官有貨物配達の際などには誂え向きだ、と書いている。勇敢で、利口で、快活で、気がおけず、有力者や金持ちの中にまじっても、いささかの怖じ気も感じない。自分を支配する権力などというものは全く認めない方で、長幼の別も彼らの間にはないらしい。フィーシェルのシベリア史第一巻には、有名なパヤールコフが、当時「いかなる他人の権力の下にも立っていなかった」ギリヤーク人たちを訪れた時のことが述べられてある。。彼らの間には卓越を意味する「ジャンチン」という言葉があるが、彼らは将軍をも、支那木綿や煙草を沢山持っている豪商をも、ひとしくそう呼んでいる。ネヴェリスコイの許で、皇帝の肖像を見た彼らは、これはきっと肉体的に強壮な人で、煙草や支那木綿を沢山くれる人に違いない、と言った。島の長官と言えば、サハリンでは、偉大な、恐ろしい程の権力を持っているのだが、ある時、わたしが長官と同乗で上アルムダン村からアルコーヴォ村へ向う途中でたまたま行き会った一人のギリヤークは、臆面もなくわれわれに命令口調で叫んだ----「待ちねえ!」----しかもそのあとで何を訊くのかと思えば、途中で自分の白犬に会わなかったか、というのだった。なお、よく言われたり書かれたりしていることではあるが、ギリヤーク人の間では、家長という存在も別段、尊敬を払われてはいない。父親の方も、自分が子供より年上だとは思っていないし、子供の方でも、格別、父親を敬おうとはせず、好き放題な暮らしをしている。年よりの母親も、家の中で特に未成年の娘より権力を持っているわけではない。息子が生みの母親を殴って、家から追い出しても、別に誰ひとり口を出す者もないのはよく見かけたところだ、とバシニャークは書いている。男性の家族はすべて同等なのである。だからもし読者が、ギリヤーク人にウォートカでも振舞おうとするなら、最年少者にまで飲ませなければいけない。女性の家族は、祖母だろうが、母親だろうが、乳呑み児だろうが、一様に無力である。彼女たちは、家畜か、投げ捨て売り飛ばし自在の品物か、或は足蹴にされる犬も同様に虐待されている。犬の方がまだしも可愛がられるが、女に対しては決してそういう素振りは見せない。婚礼などもつまらぬことで、酒盛りよりも重要でない、とされている。従って結婚は、別に何ら宗教的、乃至迷信的の儀式をすら伴ってはいない。つまり、鎗や、小舟や、犬などと交換に娘を自分の小屋へ連れ込み、熊の敷皮の上に一緒に寝る----ただそれだけである。一夫多妻制は許されてはいるが、現に女の数が男より明らかに多いのに、これは大して行われてはいない。女に対する軽侮の念は、ギリヤークの間では、文字通り奴隷制度をも一向に不埒とは考えていないのである。シュレンクの証言によると、ギリヤーク人はよく奴隷として、アイヌ女(ママ)を連れて来るという。明らかに、女は彼らの間では、煙草や支那木綿と同じ商品なのである。」(岩波文庫版 チェーホフ『サハリン島・上巻』p236〜238)」

(7)商習慣について

 まず、職務に忠実であること、横領したりしないこと、それはそうだったのでしょう。ニヴフ人の取引は伝統的に「掛け売り」つまり信用取引です。ですから使い込みなどはもってのほかです。これは彼らの商習慣です。

(8)権力者について

 次に、権力者がいなかったのは確かなようです。「村長」にあたる単語もありません。異民族の権力者のことは満州語からの借用語で「チャンギ」と呼びます。外部との交渉役がそう呼ばれたこともあったようですが、一般のニヴフ人がその指示にしたがったわけではないようです。もちろん、有力者はいたようですが、他人に無理を押し付けることはできなかったようです。気に入らなければどこかへ引っ越してしまうでしょうから。

(9)「家長制度」について

 「家長制度がない」という評価については、これは中央アジアかロシアとの比較して、ということでしょうか。ニヴフの伝統社会では、父親の地位はかなり高く、家庭内では妻や子どもは父に対して敬語を使うことになっていました。父や兄と猟に行くときも、息子や弟はその下につき、サポート役をします。ただし、目上の者は明確に言葉に出して指示をだすことはしません。それとなく分かるようにふるまい、目下の者が「察して」先回りします。こういった「暗黙の了解」の文化はいろいろと形を変えて現在まで続いています。ただし、若者が自分たちの好きなように行動するのも確かです。伝統的には(クロテン猟地以外には)土地の相続などがないので、土地や家にしばられる、ということがないのです。母親を足蹴にする、というのはどうでしょうか。一般には聞いたことがありませんが、100年前にはそういう事例もあったのかもしれません。ただ、女性の権利を守るのは、その親族(出身リニッジ)の役割であり、夫の親族(出身リニッジ)の義務ではないのも確かです。ボシニャークの目撃した事例でも、その「母親」の出身リニッジがを聞きつけたら文句を言ってきていたに違いありません。

(10)食物の分配

 また、「男性が同格」というのは、場合によりけりです。先ほど述べたようにちゃんと序列はあります。ただし、食べ物の分配についてはまた別です。もちろん完全に平等ではなく、目上から順においしいところ、いいところを取りますが、ちゃんとみんなに行き渡るように分配します。現在では子どもにウォトカを飲ませるということはありませんが、昔はあったのかもしれません。今でも珍しい食べ物などはみなで分配します。「おすそ分け」が重要な社会です。「見ただけで口にしないと病気になる」ということわざもあります。

(11)女性蔑視について

 さて、最大の問題「女性虐待」についてです。ニヴフの伝統的価値観は「男尊女卑」だったといわれています。チェーホフは19世紀当時のいくつかの文献を引用して、男尊女卑の例をあげています。必ずしも直接の見聞ではありません。とはいえ、私の聞き取りでの情報はせいぜい1920年代〜1930年代のものです。それ以外はやはりチェーホフ同様に文献からの情報ということになります。

 この「男尊女卑」とは実際にはどのようなものだったのか。これは難しい問題です。まず、ロシア人でまともにニヴフ社会を観察・記述したのはおそらくシュテルンベルグ、ピウスツキあたりが初めてで、次がクレイノヴィチということになるでしょう。それ以外はかなり偏見と先入観が入っている上に、ニヴフ人との付き合いもおそらく表面的なものです。私の知る限りではニヴフ社会においては、他人の前、公式の場では男性を立てなくてはなりません。贈り物なども「家長」に渡さなくてはなりません。客を食事に招待したときでも、ホスト側の女性は客と直接口を利くことはありません。ですから、ニヴフ社会とあまり親しくないロシア人の目には「男性が威張っている」と映るはずです。

 また、かつて一部で「売買婚」が行われていたのは確かです(あくまでも一部です)。ただし、ここでチェーホフが指摘している習慣は「売買婚」とはちょっと違います。これは「婚資」と呼ばれるものではありますが、どちらかというと以前から形式的だったものです。つまり、日本の「結納」やヨーロッパの「指輪」と同じ、実質的ではなく儀礼的なものです。

 結婚式をしなかったのは確かなようです。ただし、これが男尊女卑かは別の問題です。

 「嫁の虐待」が他の民族より酷かったかどうかは疑問です。ニヴフ人の場合、「他所に嫁いで行った女性が虐待されている」という話が伝わると、一族(父系血縁集団)をあげて報復に行った、という伝説も伝わっています。よその村とは常に微妙な対立関係にありますから、そこに嫁いでいく女性(あるいは婿入りした男性)はいわば外交官として非常に重要視されます。それが虐待されれば、当然報復が検討されるのです。

 「女性の結婚は親同士が決めた」という話も聞かれます。ですが、これにも留保が必要です。婚姻には男女にかかわらず、厳しいルールがあります。まず、父方が同じ親族とは結婚できません。それから女性の場合、たいていは「誰か自分の親族の女性がすでに嫁いでいる村」に嫁ぎます。その村の人々についての情報もあるし、協力し合えて心強いからです。求婚するのは男性側ですが、受け入れるかどうかは求婚された女性が決め、その後は女性の父親が交渉に当たります。はじめから実質的に父親が決めるケースもあったのかもしれません。そのあたりはよくわかりません。なお、ときには、たまたま会った若者同士、あるいは父方が同じ親族同士で恋に落ちることがあります。そうすると「かけおち」ということになります。これは社会制度の問題なのです。江戸時代の日本社会でも「親同士が決めた結婚」が普通でした。でも、だからといって「日本人が自由意志を軽蔑していた」というわけではありません。たんに「結婚においては自由意志が反映されなかった」というだけのことです。

 もうひとつ、伝統的ニヴフ社会は男女の分業が発達しています。ロシア人と早くから接触していたアムール川流域のトゥングース系社会と比較しても、です。例えばニヴフ人女性は狩猟に出ませんでした。これは女性の猟師がたくさんいたトゥングース社会とは違います。ですが、これらをもって「男尊女卑」といえるのかどうか。


第七引用部分(「天吾」による朗読)

 「彼らのところには法廷などなく、裁判が何を意味するかも知らないでいる、彼らが今にいたるもなお、道路の使命を全く理解していないという一事からしても、彼らがわたしたちを理解するのがいかに困難か、わかるだろう。道路がすでに敷かれているところですら、あいかわらず密林を旅しているのだ。彼らが家族も犬も列を作って、道路のすぐそばのぬかるみを、やっとのことで通っていくのをよく見かける。」(村上春樹『1Q84』p468〜469)

 「彼らのところには法廷などなく、裁判が何を意味するかも知らないでいる。彼らが今にいたるもなお、道路の使命を全く理解していないという一事からしても、彼らがわたしたちを理解するのがいかに困難か、わかるだろう。道路がすでに敷かれているところですら、あいかわらず密林を旅しているのだ。彼らが家族も犬も列を作って、道路のすぐそばのぬかるみを、やっとのことで通って行くのを、よく見かける。」(中央公論社版 チェーホフ『サハリン島』p182)

 「彼らの間には裁判というものがなく、従って、法のいかなるものであるかも知らない。いかに彼らにとってわれわれを理解することが困難であるかは、彼らが今日まで道路の目的が全然解らないのを以ても明らかである。既に立派な道路が通じているあたりでも、彼らはなお依然として、密林の中を旅している。彼らや家族や犬までが一列に繋がって、道路のすぐ傍の、泥濘へはまり込みながら通って行くところなどは、よく見かける図である。」(岩波文庫版 チェーホフ『サハリン島・上巻』p242)

(12)「ニヴフ人が道路を使わない」ことについて

 これは『サハリン島』の本文ではなく、第十一章末の注としてつけられた文章です。面白い証言だと思いますが、「ニヴフ人が道路を使わなかった」ことについては理由がありそうです。当時、ニヴフ人集落とロシア人集落は通常は離れていました。したがって、それぞれにつながる道は別でした。ニヴフ人はロシア人と違って馬車などを使わないので、ニヴフ人集落につながるのは細い小道です。チェーホフが目撃したのは、「ロシア人集落につながる道」と一部並行していた「ニヴフ人集落につながる小道」を行く一行だったのではないでしょうか。ニヴフ人は道中で諸々の用事を足しながら行きます。途中で山草を採取したり、食事をしたり、知人の家に寄ったり。山菜のポイント、休憩のポイント、知人の家、いずれもロシア人の作った道路上にはありません。また、道では別のニヴフ人が通った足跡があるはずです。それを見ればさまざまな情報が得られる。それはニヴフ人の社会生活上重要です。ロシア人の馬車の跡よりもずっと重要だったはずです。

 「裁判」云々については、まあその通りです。ニヴフ伝統社会にはこまごまとしたルールがあり、共同体はそのルールを個人に守らせていました。ニヴフ語には「法」「おきて」を意味する「トシュ」という単語もあります。ですがそのための機関や担当者(つまり裁判所・裁判官)が設けられてはいませんでした。また、「法」「おきて」は伝承されているものであり、誰かが新たに恣意的に作っていいものではありません。そういう意味では、権力者によって勝手にどんどん新しい法律が作られるロシア社会とは違っていたことは確かです。


第八引用部分(「天吾」による朗読)

 「ナイーバ河の河口には、以前ナイブーチ監視所があった。これの建設は一八六六年である。ミツーリがここに来た頃は、人の住む家や空家を合わせて八軒の建物と、小礼拝堂、食料品店があった。一八七一年に訪れたある記者の文章によると、ここには士官候補生の指揮下に二人の兵士がいたようだ。ある小舎で、すらりとした美人の兵士の妻が、生みたての卵と黒パンをその記者に振舞い、ここの生活をめそやしたが、砂糖がべらぼうに高いことだけを愚痴っていた、という。今やそれらの小舎はあとかたもなく、あたりの荒涼たる風景を眺めていると、美人で背の高い兵士の妻など何か神話のように思えてくる。ここでは今、新しい家を一軒建てているだけだ。見張り小舎か、宿場なのだろう。見るからに冷たそうな、濁った海が吠えたけり、丈余の白波が砂に砕けて、さながら絶望にとざされて『神よ、何のために我々を創ったのです』とでも言いたげな風情だった。ここはもはや太平洋なのだ。このナイブーチの海岸では、建築場に徒刑囚たちの斧の音がこえるが、はるか彼方に想像される対岸はアメリカなのである。左手には霧にざされたサハリンの岬が望まれ、右手もまた岬だ……あたりには人影もなく、鳥一羽、蝿一匹見当たらぬ。こんなところで波はいったいだれのために吠えたけっているのか、だれがその声を夜毎にきくのか、波は何を求めているのか、さらにまた、の去ったあと、波はだれのために吠えつづけるのだろうか----それすらわからなくなってくる。この海岸に立つと、思想ではなく、もの思いのとりこになる。そらろしい、が同時に、限りなくここに立ちつくし、波の単調な動きを眺め、すさまじい吠え声をきいていたい気もしてくる。」(村上春樹『1Q84』p469〜470)

 「河口には、以前ナイブーチ監視所があった。これの建設は一八六六年である。ミツーリがここに来た頃は、人の住む家や空家を合わせて八軒の建物と、小礼拝堂、食料品店があった。一八七一年にナイブーチを訪れたある記者の文章によると、ここには士官候補生の指揮下にニ人の兵士がいたようだ。ある小舎で、すらりとした美人の兵士の妻が、生みたての卵と黒パンをその記者に振舞い、ここの生活をめそやしたが、砂糖がべらぼうに高いことだけを愚痴っていた、という。今やそれらの小舎はかたもなく、あたりの荒涼たる景色を眺めていると、美人で背の高い兵士の妻など何か神話のように思えてくる。ここでは今、新しい家を一軒建てているだけだ。見張り小舎か、宿場なのだろう。見るからに冷たそうな、濁った海が吠えたけり、丈余の白波が砂に砕けて、さながら絶望にとざされて『神よ、何のためにわれわれを創ったのです』とでも言いたげな風情だった。ここはもはや太平洋なのだ。このナイブーチの海岸では、建築場にひび労役囚たちの斧の音がこえるが、はるか彼方に想像される対岸はアメリカなのである。左手には霧にざされたサハリンの岬が望まれ、右手もまた岬だ……あたりには人影もなく、鳥一羽、蝿一匹見当たらぬ。こんなところで波はいったいだれのために吠えたけっているのか、だれがその声をここで夜毎にきくのか、波は何を求めているのか、さらにまた、わたしの去ったあと、波はだれのために吠えつづけるのだろうか---それすらわからなくなってくる。この海岸に立つと、思想ではなく、もの思いのとりこになる。そらおそろしい、が同時に、限りなくここに立ちつくし、波の単調な動きを眺め、すさまじい吠え声をきいていたい気もしてくる。」(中央公論社版 チェーホフ『サハリン島』p219〜220)

 河口には嘗ては、一八六六年に出来たナイブーチ官衛地というのがあった。ミツーリはここで、居住中のや空家を合せて一八戸の家と、礼拝堂と、食料品店とを見かけている。一八七一年にナイブーチにいた一通信員は、ここには士官候補生の指揮の下に二○名の兵卒がいた、と書いており、一軒の家では、美しい、丈の高い兵卒の妻が生みたての卵と黒パンでこの通信員を歓待なし、ここの生活を讃えたが、ただ彼女は砂糖が非常に高い、とこぼしていた、と言う。
 今ではそれらの家は既に跡形もなく、周囲の砂漠を見廻していると、その美しい、丈の高い兵卒の妻などは一篇の神話のように思えてくる。ここには看守の家か宿場のような新しい家が建築中であるが、ただそれだけである。海は、見た眼にもいかにも冷たそうで、濁って、吠え騒いでいる。高い白髪の波浪が砂に砕け散るさまは、あたかも絶望のうちに----神さま、あなたは何故われわれを創られたのです?----とでも言いたげである。ここはもう太平洋なのだ。このナイブーチ海岸では徒刑囚たちが建物の中で斧を振る音が聞こえるが、遥かに仮想の対岸にはもうアメリカがあるのだ。左手には、霧の中を通してサハリンの岬が望まれる。右手にも岬……が、あたり一帯には人っ子一人、小鳥一羽、蝿一匹いない。いったい誰のために、こおでは浪は咆えているのだろう。誰がそれを夜毎に聞くのだろう。何がそれに必要なのだろう、さては、わたしが去ってしまったら誰のためにこの浪は咆えるのだろう、とそんなことまで訳が分らなくなってしまう。この海岸に立っていると、思想というよりも思索に捉えられる。胸が迫って来る。と同時に、いつまでもいつまでも果てしなく立ちつくしてこの浪の単調な動きを眺めながら、雷鳴のような咆声に聴き入っていたいような気にもなるのだった。」(岩波文庫版 チェーホフ『サハリン島・上巻』p287〜288)

この部分はチェーホフ『サハリン島』の最後の部分です。ニヴフ民族については触れられていません。


おまけ

村上春樹『1Q84』には引用されていませんが、チェーホフの記述のうち、誤解を招きそうな部分を以下にあげておきます。

参考(1)「人口の減少」について

「サハリンにいるギリヤーク人の数が減少の一途を辿っていることには疑いないが、それは目で判断するほかない。それにしても、この減少度はどの程度まで大きいものだろうか? なぜそういうことが起るのか? ギリヤーク人たちが死に絶えつつあるからだろうか、それとも彼らが大陸や北方諸島へ移住しつつあるためだろうか? 信頼し得る数次の資料を持ち合わさぬため、ロシヤ人の侵略による破壊的影響という、われわれの解釈も、しょせん類推にもとづくものにすぎないのだから、その影響が現在までのところ取るに足らず、ほとんど零にひとしいということも、大いにあり得るのだ。というのは、サハリンのギリヤーク人たちは主として、ロシヤ人のまだ来ていないトゥイミ河畔と東海岸に住んでいるからである。」(中央公論社版 チェーホフ『サハリン島』p169〜170)

「サハリンにおけるギリヤーク人の数がたえず減少しつつあることは疑いを容れぬところであるが、これとて目分量でこう判断するだけである。この減少振りはどの程度に著しいものか?それは何故生じたものか?ギリヤークそのものが滅びつつあるためか、それとも大陸か北方諸島へ移住しつつあるためか?またロシア人の侵入による破壊的影響というような吾人の判断も、確実な数字的資料がないために、単なる類推に基づくものにしか過ぎないのであって、或はそのような影響は、今日までほとんど絶無といっていいほど無力であったかも知れないということも、また大いに在りうべきことなので、その理由は、サハリン・ギリヤークは主として、ロシア人がまだ居ないトゥイミ河畔や東部沿岸に居住しているからである」(岩波文庫版 チェーホフ『サハリン島・上巻』p228)

(村上春樹『1Q84』には引用されていません)

 チェーホフが参照した報告では、サハリンのニヴフ人が減少し続けている、とあったようです。ですが、チェーホフが疑念を呈しているとおり、ニヴフ人は特に減少していません。彼はまた、ニヴフ人が減少しているように見えるのは、たんに元いた場所から他の場所へ移住しているだけではないか、と推測しています。それはひょっとしたら当たっていたかもしれません。「大陸か北方諸島」ということはなかったにしても、ロシア人がいない地域に移住していた可能性はあります。


参考(2)「純血のギリヤーク人」について

「まれに見る社交性と移動性のため、ギリヤーク人は昔から近隣のあらゆる民族と血縁関係に入っており、そのため今や、モンゴル、ツングース、アイヌなどの血のまじらぬpur sang[純血]のギリヤーク人に会うことは、まず不可能だ。」(中央公論社版 チェーホフ『サハリン島』p170)

「持ち前のなみはづれた社交性と移動性によって、ギリヤーク人は古来から凡ゆる四隣の民族と血縁関係を結んで来ているので、現在では、蒙古・ツングース・アイヌなどの血のまじらないpur sang(純血)のギリヤーク人に出会うことはほとんど不可能である」(岩波文庫版 チェーホフ『サハリン島・上巻』p228)

(村上春樹『1Q84』には引用されていません)

 これは「純血のニヴフ人」がかつては存在した、という素朴な古臭い「人種」観念にもとづきます。知られている限り、ニヴフ社会は父系制で外婚制をとっています。つまり、父方が同じ親族とは結婚できません。ということは、結婚相手は限定されます。ニヴフ人居住地域の端に住むニヴフ人は、さらに結婚相手が少なくなります。そのため、チェーホフ自らが書いている通り、知られている限り昔から別民族との結婚が行われています。それが行われていなかった時代など幻想です。つまり、「純血のギリヤーク人」など昔から存在しません。ただし、現在では圧倒的多数派であるロシア人、朝鮮人との結婚が増えています。これはおそらく、以前にはなかったほど多く行われており、新しい現象です。

村上春樹『1Q84』での引用の仕方

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