村上春樹『1Q84』便乗特別企画


村上春樹『1Q84』での引用の仕方

ニヴフ人やアイヌ人を登場させた作品に欠けているもの

2009年6月22日版

2009年9月3日「ネット検索から来られた方に」を追加


ネット検索で来られた方に

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お読みになる前に

ここでは、村上春樹『1Q84』におけるチェーホフ『サハリン島』からの引用の仕方について考えます。実のところ、ル・クレジオに比べてどうなのよ?といいたくなります。というわけで、「細かいことは気にすんな」とか、「何があっても村上春樹は悪くない」とか、「先住民がどう思うかなんて気にしてられるか」とか、「文学的創作においては何でも許される」とかお考えの方には向かないかもしれません。


要約

 村上春樹『1Q84』がチェーホフ『サハリン島』を引用している目的と、その引用の仕方を検討し、その問題点を指摘します。まず、引用の目的は相対主義と絶対悪の矛盾を示すことであり、それは当事者性という形で提題されています。また、その目的のためにニヴフ民族の姿が単純化・図式化されています。次に、図式化されたニヴフ人と現実の橋渡しのために「サハリン残留朝鮮人」が登場していますが、それは失敗です。ニヴフ人が作品を読むことを想定していないのは重大な欠点です。カルトや女性虐待に関して「当事者性」を扱っているにもかかわらず、「アイヌ人やニヴフ人」に関しては従来と同じく「当事者性の欠如」という失敗を抱えています。


1.すぐにわく疑問

 村上春樹『1Q84』でのチェーホフからの引用には、ぱっと見てすぐに疑問がわきます。あまりにも無防備に「先住民」であるニヴフ民族に関する「ステレオタイプ的紀行文」を引用しているからです。

まず、「なぜ原文・先行訳のままにされているのか

(1)なぜ「ギリヤーク」が現在「ニヴフ」と呼ばれていることについて注釈がないのか(現在の文章であれば蔑称とされる「ギリヤーク」を避け、「ニヴフ」と表記すべきである)。
(2)なぜ「ベリー」が「苺」と訳されたままになっているのか(現在の文章では通常「ベリー」を用いる)。

次に、「引用箇所はどういう基準で選ばれているのか

(3)なぜ「顔を洗わない」「下着を洗わない」「衛生環境云々」が引用されているのか。
(4)なぜ「女性蔑視」に関する部分が引用されているのか。

最後に、「なぜそのような引用の仕方をしているのか

(5)なぜ、本文ではなく注である「道路を使わない」という部分が引用されているのか。
(6)なぜ引用の一部が削除されているのか。

これらにはちゃんとした理由があるようです。

2.なぜ原文・先行訳のまま「ギリヤーク」「苺」が用いられているのか 〜リアリズム〜

 これは「原文・先行訳を登場人物が読んだ」ということを強調するためでしょう。引用は明らかに先行する訳本を念頭においてなされています。つまりこれは一種のリアリズムです。ここで「ギリヤーク」が政治的に正しく「ニヴフ」になっていたり、「苺」が「ベリー」に改訳されていたりしたら興ざめです。そんな訳本は存在しないのですから。そしてそれを受けて、読者は小説内世界と、現実世界を区別する必要があるのです。現実では「ギリヤーク」は「ニヴフ」に修正されるべきである。しかし小説内ではそのままでよい。というわけです。これは(5)でも同様です。登場人物はチェーホフの注を読んでおり、さらにそれを自分の知識としている。彼は「和人に圧迫されたアイヌ人が北上してニヴフ人を追い出した」と別の登場人物に教えます。これはチェーホフの記述では注に記されている部分です。この登場人物は北方史に関する他の書物をあまり読んでいません。チェーホフしか読んでいない。そういう「設定」なのです。ただし、これは(6)と矛盾します。つまり、引用に当たって一部削除されているのです。この矛盾は「登場人物は相手が理解しやすいようにそうした」ということになっていますが、そんなの言いわけです。これについては後で検討します。

3.なぜそこが引用されたのか 〜相対主義の提示とそこからの脱却〜

 次に(3)(4)についてです。まず、チェーホフの記述自体が非常に短いために、選択の余地があまりなかったから、とも考えられますが、それでは作品の出来が「偶然」ということになってしまいます。もちろん、そんなはずはなく、この引用には明確な意図があります。これは文化人類学的にいえば「文化相対主義」を問うているのです。まず、ニヴフ社会について、われわれに悪い印象を与える現象(劣悪な衛生環境)、良い印象を与える現象(権威主義的でないこと)が交互に引用されます。登場人物の一人(男性)がそれを朗読し、聞いていたもう一人の登場人物(女性)はそのたびに、「気の毒なギリヤークじん」「すてきなギリヤークじん」とコメントします。つぎにニヴフ社会における女性蔑視についての記述が引用される(朗読される)と、聞いていた女性の登場人物は黙り込んでしまいます。最後に「サハリンにかつてあった監視所と無人の海岸によせる荒波」の話が引用(朗読)されて終わります。そのときには引用(朗読)を聞いていた登場人物(女性)は眠ってしまいます。

 つまり、異文化にも客観的に見て良い点、悪い点の両方があるという相対主義を示し、つぎにその異文化において、当事者にとって絶対悪でしかない現象を突きつける、という構造になっています。これは作品の「カルト教団における女性虐待」というテーマと関わっています。さらに、最後に女性が眠り込んだあとに男性が読む「無人の海岸によせる荒波」は、ひとつの解答を暗示していますが、ここではこれ以上分析しません。

 こういった効果を狙ってチェーホフの記述を利用したのだとすると、ニヴフ人の実態への配慮も、チェーホフの記述の引用の忠実さも、あまり必要ないということになります。それこそ全く創作だってよかったのです。

4.なぜ引用の一部が削除されているのか 〜ニヴフ人の図式化・単純化〜

 登場人物が引用(朗読)する場面では「聞き手が理解しやすいように、場合によっては文章を適当に省略し、変更しながら読んだ」とあります。なるほどと思わせますが、では実際にどこが変更されているのでしょうか。文の途中で省略している箇所は二箇所しかありません。ひとつは「ニヴフ人が権威主義的でないこと」の例としてチェーホフが引用しているいくつかの文献からの孫引きです。二つ目は女性虐待に関連した「シュレンクの証言によると、ギリヤーク人はよく奴隷として、アイヌ女(ママ)を連れて来るという。」という箇所です。前者は孫引きがあまりに極端になるので「理解しやすいように」削除したのかもしれません。問題は後者です。なぜ「ニヴフ人がアイヌ人女性を奴隷として入手している」という箇所が削除されているのでしょうか。

 これは『1Q84』における恐るべき単純化・図式化のせいとしか考えられません。登場人物の台詞に引用されている部分では「和人がアイヌ人を圧迫し、アイヌ人がニヴフ人を圧迫した」という古い学説が述べられています。そしてそれからしばらくあとに「ニヴフ社会における女性虐待」の話が引用されます。それにより、

和人→アイヌ人→ニヴフ人→女性

という圧迫の図式が打ち出されています。つまり、ここで「ニヴフ人がアイヌ人女性を奴隷にしている」という話を持ち出すと、「ニヴフ人が女性を圧迫している」だけでなく「ニヴフ人がアイヌ人に逆襲している」という逆方向のベクトルを示すことになってしまいます。圧迫の図式は

和人→アイヌ人⇔ニヴフ人→女性

となり、話が複雑になってしまいます。だからこそ単純化するために、この部分が削除されたのです。となると、削除されたもうひとつの箇所についても合点がいきます。つまり、「ニヴフ人がロシア人の皇帝やサハリン島の長官の権威を軽んじている」という例は「ニヴフ人が女性以外の相手を攻撃している」という、やはり別方向のベクトルを示すからこそ削除されたのです。この二箇所の削除は「ニヴフ人が女性のみを圧迫している」ことを示すための演出といえます。この単純化は物語を分り易くすることを意図しているのでしょう。ですが、劣悪な住環境と高貴な精神性、という「高貴な野蛮人」の系譜、「オリエンタリズム」の日本版であり、偏見を再生産していることも確かです。これは無邪気な偏見ともいえます。ですが、問題はそれだけではありません。

5.なぜ「サハリン残留朝鮮人」が登場するのか 〜現実への引き寄せという失敗〜

 小説中には「タマル」というサハリン出身者が登場します。終戦前に朝鮮半島からサハリンに渡り、大日本帝国の崩壊によって帰れなくなった朝鮮人の息子という設定です。彼は赤ん坊のうちに日本人の手に預けられ、両親と別れて一人だけ日本に「帰国」したのです。彼は日本国籍を手に入れ、日本人としてそこそこの暮らしをしています。さらに彼は同性愛者であり、非合法社会と関係を持つ人間です。つまり、彼はマイノリティの象徴です。しかし彼は小説中で唯一の暴力的存在ともいえる拳銃をもたらします。つまり「現実を左右する力」の象徴でもあります。「タマル」の生い立ちに関する記述は、従来の偏見をある程度排除したところで成立しています。つまり、「サハリン残留朝鮮人」といえば「強制連行」というステレオタイプから一歩踏み出しています。これはほとんど架空の存在に近い「ギリヤーク人」とは対照的です。

 村上春樹は一種の寓話として「ギリヤーク人」を持ち出しました。いっぽうで、その分身ともいえる「サハリン残留朝鮮人」を現実として登場させています。それは前者がファンタスティックな存在であるのに対し、後者がリアルな存在だからでしょう。それによって「物語内での架空の土地サハリン」が「物語内での現実の土地サハリン」になるわけです。これはギミックです。ではなぜ、村上春樹は「ギリヤーク人」「サハリン」を寓話のまま完全に隔離しておかなかったのでしょうか。おそらく彼は「当事者性」に毒されてしまい、ちょっと色気をだして「サハリン」を現実にひきよせようとしたのでしょう。いずれにしてもこれは失敗です。非常に中途半端な結果に終わり、「ギリヤーク人」に関する限り、何もいい結果が出ていません。少なくとも1巻・2巻での「タマル」の役割を見る限り、失敗としかいいようがありません。

6.現実における残留朝鮮人とニヴフ人の関係

 サハリンの「残留朝鮮人」とニヴフ人をはじめとする北方先住民は現実として、かなり深い関係にあります。彼らは日本人が引き上げた後のサハリン漁業の主要な労働力となりました。特に旧日本領に残ったニヴフ人・ウイルタ人と朝鮮人はお互いに婚姻関係を結び、連続的な共同体をかたちづくりました。チェーホフから引用されたファンタスティックな「ギリヤーク人」と、物語中で「現実の力」の象徴として現れる「タマル」は実際には非常に近しい存在なのです。

 そもそも「日本にいるサハリン出身者」は「サハリン残留朝鮮人」だけではありません。当のニヴフ人もたくさんいるのです。それなのになぜ小説内での「ギリヤーク人」は不衛生で顔も洗わず、女性を虐待する存在であり、「タマル」は厳しい幼少期を過ごして自衛隊に入り、まっとうな暮らしをするに到っている存在なのでしょう。これは「民族性」によるのではない。チェーホフと同時代のロシア人も日本人もそこそこ不衛生だったでしょうし、女性差別は日本社会でもありました。戦前戦後のニヴフ人は厳しい幼少期を過ごし、ロシア軍や日本軍に従軍しています。戦後の移住者の中には自衛隊に入隊した人がいたかもしれません。

 これは想像力の問題です。どれだけ「ニヴフ人」がリアルな存在として想像できるか、という問題なのです。そして『1Q84』で出された結論は、「ニヴフ人はリアルな存在として想像できないので、代わりにサハリン出身の朝鮮人を登場させる」というものだったわけです。しかし、これはむしろやらないほうが良かったでしょう。それによって村上春樹という作家の限界が露呈しているからです。

7.「ギリヤーク人」も村上春樹の作品を読んでいる

 サハリンに住む現実のニヴフ人は村上春樹の小説をロシア語訳で読んでいます。村上春樹はロシアでは非常に人気のある作家なのです。ロシア社会にあって、「チェーホフの記述」は繰り返し「野蛮性の証」としてニヴフ人に突きつけられてきました。非常に現実的な圧力です。より公平で妥当な記述を残した民族学者クレイノヴィチがニヴフ人の間で好意をもって語られるのに対し、大作家チェーホフについては誰もふれようとしません。チェーホフの『サハリン島』は肝心のサハリンではロシア人にのみ愛されているのです。それは必ずしも記述が短いからではありません。そういった問題のある記述を引用するときに、書き手はニヴフ人自身がそれを読む可能性を考慮しないでよいのでしょうか。この記述は何らかの意味でニヴフ人の真実を描いているのでしょうか。小説に登場するものは、いずれもその真実の少なくとも一端が描かれます。しかし「ギリヤーク人」だけはステレオタイプに閉じ込められたままです。ニヴフ人が『1Q84』を読んで感じるのは、友人の「朝鮮人」の現在が比較的リアルに描かれているのに、自分は「チェーホフによる100年前の野蛮人」として登場する、というやりきれなさでしょう。わざわざ引用された「ニヴフ社会の女性虐待」の話は、当事者性によって、相対主義から脱却するためでした。ところが、今度はニヴフ人の当事者性がなおざりにされてしまったわけです。

8.結論:当事者性の欠如

 こういったステレオタイプの再生産がやまないのは、たんに偏見が今に生きていることを意味するだけではありません。それは日本のクリエイターの重大な欠点と関係しています。アイヌ民族、ニヴフ民族が登場する創作作品はたくさんあります。ですが、どれひとつとして彼らが「主人公」になっているものはありません。主人公は「アイヌ人に育てられた和人」や「ニヴフ人女性と結婚した和人」「東北の『蝦夷』の子孫っぽい和人」などばかりです。日本のクリエイターにとって「アイヌ人」「ニヴフ人」はあくまで「他者」であり、当事者性を共有することが出来ない存在なのです。『1Q84』における「ギリヤーク人」と「タマル」の有り様は、またしてもこの日本のクリエイターの欠陥を繰り返したものといえます。必要なのは、当事者を描く覚悟と想像力なのです。

 『1Q84』は現在1巻・2巻が出版されていますが、内容から見て3巻以降が書かれることでしょう。そのときにこそ「当事者を描く覚悟と想像力」が「サハリン残留朝鮮人」だけでなく、「ギリヤーク人」に対してもおよぶことを期待したいと思います。

(終わり)

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