ニヴフの伝統歌

 

「伝統的な歌をきかせてくれ」と頼んでも…

 ニヴフ人に「ニヴフの歌を聞かせてくれ」と頼んでも、たいていは困った顔をされるだろう。ひょっとして民族音楽サークルに参加していた若者が相手だったりしたら「トゥッド・ヌッド、トゥッド・ニャハ(これ何だ、これは目だ)…」という遊び歌を教えてもらえるかもしれない。これは子どもの遊び歌で、「これは何だ、これは目だ」と言って自分の目にさわり、「これは何だ、これは耳だ」と言って自分の耳にさわり、と続けていくものである。もちろん、これだって歌には違いないが、あくまで子どもの遊びである。あるいは、もう少し運がよければ、「アッタタ・ヴェッサ…(カアカア、カラスよ…)」という歌を聞かせてくれる人に出会えるかもしれない。これは丸太叩き(という一種の器楽)のときに唱える歌詞である。これらの特徴は「まったくメロディアスでない」ということである。しかもリズムも単純である。

 ところが、これらをもって「ニヴフ文化にはメロディアスで叙情的な歌がない!」と早合点してはいけない。」実は、「大人が歌う歌」は別に存在し、それらはメロディアスで叙情的である。ところが、それは滅多に聞かせてもらえない。大きな理由は「歌える人がいなくなった」つまり、伝統文化がまったく衰退してしまったせいなのだが、それにしたって歌の一つくらいは残りそうなものではないか?日本人ならたいてい『さくらさくら』『故郷』が歌えるように。

 伝統歌の名手リディヤ・ムヴチクさん

 

個人の歌

 ところが、ニヴフ音楽はそうはいかなかった。「歌」は個人に帰属する。大勢のニヴフ人が1つの歌を共有する、ということはあまりなかった。大勢が声を合わせて歌う、ということもない。あくまで1人で自分の歌を聞かせるのである。他人の歌もどうやら自己流に「アレンジ」するのが普通だったらしい。つまり「他人の歌」を歌うシステムではない。「ニヴフの歌」というからには、せめて自分流アレンジを施しておかなくてはならないのである。

 こういう文化において「ニヴフの歌を知っているなら歌って見せろ」という要求は「ちょっとずれたもの」である。ロシア文化や日本文化と異なり、「みんなの知ってる曲をひとつ…」というわけにはいかない。自分の歌を持たない人に「他人の歌を歌って見せろ」というのは無理な要求なのである。こういった歌のあり方は近辺では南のアイヌ民族と共通する。一方、北方やアムール地方で隣接していたトゥングース諸民族にはどうやら「みんなの知っている歌」というものがあるらしい。「ニヴフ民族はトゥングース諸民族と文化的に非常によく似ている」とよく言われるが、細かな部分では違いもあるのだ。

 「個人の歌」という概念が非常に発達した民族の場合は、「歌の譲渡」が可能だったりするらしい。ニヴフ伝統音楽においては、そういう記録はない。同じ歌を複数の人間が歌う例もあることは、ある。また、かつては「有名な歌」もあったらしい(録音が残っていないのでどれくらい「同じ」く歌われたのか怪しいが)。しかし基本的にはやはり、個人のほどこしたアレンジを完全に真似ることはない。それをやっているのは研究者だけかもしれない。

 伝統歌・口琴の名手パナクさん

 

「曲」の定義

 ニヴフ伝統音楽において「曲」を定義するのは難しい。メロディーはどれも似通っているが、少しずつ違う。アレンジもさまざまである。結局のところ、「個人のアレンジ」より上の範疇は存在しないようである。そしてどうやら、メロディーの独創性は重視されない。みんなで「使いまわし」をしてアレンジしまくっているのである。「使いまわし」の素材はときどき外部からも入ってくるらしく、いかにもトゥングースっぽい曲調の歌もある。「ニヴフっぽい歌」「トゥングースっぽい歌」の判断基準も面白い。私がメロディーラインで判断するのに対し、彼らはどうやらアレンジで判断する。「アレンジ」というのは(1)裏声とビブラートの配置、(2)曲構成の改変、の二つからなるが、特に前者は「ニヴフっぽさ」の基準になるらしい。同じメロディーを聞かせても、裏声やビブラートが使われていないと「トゥングースの歌だ」と断言されたりする。

 

(2007年12月31日)

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